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MBA留学の学び

2017年9月に渡米し、今月(2019年6月)でMBA留学を終える。ビジネススクールの学生および米国居住者として650日余りを過ごしたが、その学びについてまとめる。

その1:人生色々

アメリカに渡り真っ先に気付くのが、いかに日本が狭く、画一的なのかということ。「日本人」と言うと、国籍も、民族も、宗教観も、文化も大方同一の人の集まりだ。それが一転、アメリカに渡ると、そのすべてがバラバラの人の集まりである。画一的な日本の真反対で、多様性(ダイバーシティ)を尊重し世界一の経済大国を築き上げた。ビジネススクールで最初に受けた授業も、組織のダイバーシティこそが競争力の源泉であり、Diversity of thought(考え方の多様性)を最大化させるリクルーティングがいかに重要かということを習った。

国籍も、民族も、宗教観も、すべて「日本人」である私は日本で暮らすことが非常に心地よいが、改めて外から見た日本の抱える課題を客観視できた機会はとても貴重だ。そんな中で、やはり「多様性の欠如」は大きな弱点のように思われる。

自身のキャリアを振り返ったときも同じように感じるところがある。これまで一度だけ転職を経験しているが、敷かれたレールの上を走っている感が否めない。評判の高い会社で優秀な人に囲まれ、高く評価されることが「成功」と信じてやまないきらいがある。

留学という形で会社を離れ、国を離れたことで、「人生における成功の定義」はもっともっと広いことを実感として持てるようになった。

留学中は毎日、日本で働いているとなかなかできない多用な経験をした。北京・ロンドンオリンピックの金メダリストでクラスメイトのジェシカにコミュニケーションについてのコーチングを受けたり、パナマ共和国の厚生労働大臣の息子のフーリオと二人でルワンダの奥地でホームステイしてみたり 、グ-グルで15年以上社長および会長を務めたエリックと2カ月間毎週ランチをしながらテック企業の経営について教わったりした。村民の6分の1が双子というナイジェリアのイグボーラ村で生まれ育ったアビオダンと一緒に学長の自宅で晩御飯をご馳走になったり、ペブルビーチゴルフ場の社長の息子のウィルと一緒にビアポン大会で春夏完全優勝してみたり(アメリカ人にとってはかなりの誇りらしい)、ジェットブルーという航空会社の現役会長で敬虔なモルモン教徒のジョエルの広大な別荘で家族観について教わったりもした。こんな日々を過ごしていると、世界は自分が想像するよりずっと広いことを実感させられる。

翻って自分の人生も、もっともっといろんな選択肢があって、ずっとずっと自由なんだと思うようになった。

地球のどこに住んだっていいんだし、どんな職業についてもいい。何ならそもそも働く必要があるのかを問うことだってできる。コンサル的な言葉を使うと、自分の人生のソリューション・スペースは無限なんだということを実感として持てるようになった。

その2:夢は大きく

これまでニューヨークが世界経済の中心と言われて久しかったが、ここ数年テック企業が台頭したことでシリコンバレーが世界経済における地位を大きく上げている(いずれアメリカを飛び出し中国に移る日もそう遠くなさそうだが、、、)。

シリコンバレーはテックとアントレプレナーシップの聖地として知られるが、日々大成功を果たしたテックアントレプレナーがキャンパスに来ては授業や講演をしてくれる。日本ではなかなか見ることのない、ダイナミックで大きなスケールの成功を共有してくれる。このようなエコシステムに育ったシリコンバレーの起業家やスタートアップは皆、アメリカに留まらず世界を変えられると信じてやまないし、それが常識とすら思っている。

Facebookのキャンパスを訪れたときに受けた衝撃を思い出す。ディズニーランドのようなメインキャンパスに始まり、高級リゾート地顔負けの屋外ミーティングスペース、ゲスト含めすべてが無料食べ放題の数々のレストラン・高級アイスクリームパーラー・スムージー屋さん、さらには美容室、クリーニング屋、ゲームセンター、ロッククライミング用の岩まで設置してあった。社員の働き方はと言うと、ほとんどの人が夕方の4時ないしは5時には帰宅しており、6時まで会社に残っていると周囲に心配されるとのこと。

わずか15年ほど前に創業されたベンチャーが築き上げた帝国(あるいはユートピア)を目撃し、ただただ驚かされた。あらゆる次元(職場環境、働き方、ライフスタイル、売上成長率、時価総額、一人当たり生産性)でこれまで見てきた日本の企業との違いに呆れさえした。

「If you can’t see it, you can’t be it」という言葉があるが、正に毎日「でっかく成功することとは何なのか」をまざまざと見せつけられることで感化されるところは多い。そんな場で日々学んでいると、(単なる錯覚な可能性もあるが)意外と身近なもんなんだと感じれるようにもなったのと、成功の型は本当に多様なんだなということも刻みこまれたように思う。

「大きな夢」を持つことは心身の健康への効用も実は大きい。目標を達成して得られる瞬発的な幸福や興奮(ドーパミン)よりも、達成の有無に関わらず大きな目標や夢に向かって取り組むことで得られる持続的な幸福感(セロトニンやオキシトシン)こそが幸せな人生をもたらすとされている。幸せな人生を送るためには、幸せを追い求めるのではなく、達成できないぐらい大きな夢を抱き、それに向かって日々取り組むことこそが近道ということを教わった。

その3:愛には愛を

ビジネススクールという学びの場は多くの方の善意で成り立っている。キャンパスそのものが多額の寄付によって建設されている上、運営費財源の1/3以上は寄付ないしは大学基金の運用益が占め、潤沢に用意された奨学金も寄付によって賄われている。さらに、日ごろの授業をサポートしている豪華なゲストスピーカーらも無報酬で訪れているし、日々の学校行事は学生を中心とした有志によって企画・運営されている。さらに遡れば、留学前からいろんな方から直接あるいは間接的な支援を受けてはじめてそもそもの留学という舞台に立てている。

MBA留学はいろんな人の善意や親切心を前提としたもので、愛に溢れた温かい環境と感じるところが多かった。

例えばOBの方々をはじめ、学校と直接関係のない企業の方々までこちらが学生と言えば、快く面談のお願いも聞き入れてもらったし、教授陣・教師人にいたっては時間を惜しまず真剣に相談に乗ってくれた。損得ではなく、善意で本当に親切にしてもらった。

寛容で協力的な環境で学ばせてもらったことに対する感謝の念が耐えない一方、これまで受けた親切を次の誰かにつないでいく責任も果たしていかなければと感じている。さらに、MBA留学という狭い世界に留まらず、仕事の場に戻ってからも善意や親切を広げていきたいと思うようにもなった。

単なる慈善としてではなく、これには経済合理的な理由もある。企業に勤めているといろんなインセンティブが存在する。多くの場合、昇給だったり、高額なボーナスだったり、あるいはタイトル・肩書で報いることが多い。場合によっては解雇されたくない、今の社会的地位を失いたくないといった後ろ向きな動機付けが利用されることもある。組織としての信頼関係が欠如していればいるほど、先述の恐怖だったり金銭的な報酬に頼らざるを得ないことになる。日本語で言う、「金の切れ目は縁の切れ目」ということで、非常に脆弱な組織ということになる。逆に信頼関係が高い組織ではそういった単純なインセンティブに必要以上に頼らずとも組織を束ねることができるし、働いていて楽しい職場環境とも言える。

お金がもっと欲しいから働く、社会的地位を得たいから働く、みんなに注目して欲しいから働くという職業人生ではなく、信頼でき、信頼される仲間と大きな夢に向かって楽しく働きたいから働くという職業人生こそが幸せなのかなと思うようになった。

信頼関係の強い組織を作るにはどうしたらよいか。これまで自身は「職場における信頼」=「仕事ができること(例:合意した期限前に、合意した水準以上の成果を出すこと)」と考えていたが、それだけでは信頼は築けないことを繰り返し教わった。倫理的であることはもちろんのこと、信頼されるためには「言葉」と「行動」を可能な限り一致させる必要があり、それはプライベートも含めてのこと。職業人格とプライベートの人格が不一致では信頼されることは難しい。

最後に

2年弱、単身赴任で留学している。この2年間で9回帰国し、妻子供は7回アメリカを訪問している。平均すると1-2カ月に一回は会い、650日の留学期間の内、250日程度は一緒に過ごし、時間の許す限り共に過ごしてきたつもりだ。しかしながら残りの400日は母子家庭にさせてしまい、相当な迷惑をかけたことは負い目に感じている。その副産物ではないが、離れて暮らすことで夫婦や家族について客観的に考える時間をたくさん持て、不思議なことに家族の絆を感じる機会が多くあった。空港で見送り・見送られる際には毎回夫婦で涙し、一緒に暮らしていたらなかなか味わうことのない感情を抱いたのも貴重な財産だと思っている。

ジョエルが共有してくれた印象的な言葉がある。「僕はビジネスを通じて知り合った仲間はいっぱいいるし、大切な絆もいっぱい築いてきた。でも、友達らしい友達はほとんどいないんだ。これまでずっと週末は家族と教会に専念してきた。ゴルフなんてしない。僕にとっては家族が一番大事なんだ。」と(ジョエルは子供が7人、孫が27人いる)。そんなジョエルは社会人になって以来、上司に頼まれようとも、安息日の日曜日に働いたことはないそう。家族観や宗教観を徹底して貫く生き様は見習うところが多い。

幸せな人生、充実した人生を送る上で自分にとって大事なものは何かを見つめ、自分として整理できたことは何よりの学びだ。

今週末はいよいよ卒業式。

Blitzscalingという新しい経営のパラダイム

シリコンバレーに限らす、スタートアップ界隈ではBlitzscaling(ブリッツスケーリング)という言葉が広まっている。ベンチャー企業が爆速で事業成長を目指す経営戦略のことを指す。

名付け親のReid HoffmanによればBlitzscalingとは「不確実性が高い中、経営効率よりも事業拡大の速度を優先すること」としている。

Reid Hoffmanの著書「Blitzscaling」の中では、AirBnB、Alibaba、Amazon、Dropbox、Facebook、Flipkart、Google、LinkedIn、M-Pesa、PayPal、Slack、Tencent、Tesla、Twitter、Uberなどの企業がBlitzscalingの好例として紹介されている。

経営における意思決定の質

企業経営は無数の意思決定の集合である。社長の交代人事をどうすべきか、どの競合を買収すべきか、どこに店舗を出店すべきか、どのサプライヤーと取引すべきかなど、無数の意思決定の積み重ねが企業の運命を決める。

当然ながら「意思決定の質」をあげることが企業経営の大きな課題である。

「意思決定の質」を考えたとき、「意思決定の正しさ」のほか「意思決定の速さ」を考慮する必要がある。時間をかけ、十分な情報を収集した上で少しでも正確な意思決定をするのか、あるいは不十分な情報をもとに多少乱暴でも速やかに意思決定をして事を進めるのか。

いくら正しい意思決定でも、時間をかけ過ぎて競合に先を行かれたら質の高い意思決定とは決して言えない。

Blitzscalingにおいては後者の「意思決定の速さ」を優先することを前提にしている。あらゆる階層において「意思決定の正しさ」を犠牲にしてでも「意思決定の速さ」を優先し、事業を爆速で拡大させることを目指す。多少コストの見積もりが煮詰まっていなくても発注をかける。完璧な線表と役割分担がなくともチームを採用する。まさに不確実性が高いなかで次から次へと実行に移していく。

Blitzscalingでは「緻密な計画」、「慎重な投資」、あるいは「順序だった問題解決」をある種放棄し、「大胆な予測」や「効率性を後回しにした投資」を積極的にし、社内のあちこちで火事が起きていても多少放置することが要求される。リスクを取らず、着実に一歩ずつ前進する石橋を叩いて渡る戦法の真逆。

Facebook創業者のMark Zuckerbergは以下のように述べている。「世の中がめざましく変化する環境下では、企業がリスクを一切取らないことこそが、最も大きなリスクである。大きな意思決定をする際、必ずその意思決定をすることによるダウンサイドは付きまとう。短期的に見れば、そのようなリスクを伴う意思決定をしないほうが合理的である。ただ、リスクを避ける意思決定を続けていれば、必ず企業は失速し、生き残ることはない。」

BlitzscalingはZuckerbergの言う、大きな意思決定を高速で無数に繰り返す行為と考えられる。

崖から飛び降りて飛行機を組み立てるということ

ベンチャーの例えとして「崖から飛び降りて、飛行機を組み立てているようなもの」と言われる。地面に到達する前に飛行機を組み立てないと当然ながら地面に墜落し乗客もろとも大破することになる。ここでいう、墜落というのは、ベンチャーの資金が潰え、会社が倒産することを指している。

対して、Blitzscalingは「崖から飛び降りて、飛行機を組み立てながら、翼が完成する前にジェットエンジンを点火しているようなもの」と言われる。

通常のベンチャーでさえ十分に墜落するリスクが高い中で、Blitzscalingがいかにリスクの高い経営戦略であるかが伺える。

Competition is for losers
競争は敗者のためのもの

有名投資家のPeter Thielは常々、「競争を回避すること」こそが大成功するベンチャーの秘訣と言う。

指数級数的な成長を常とするベンチャー企業において、企業価値の大部分は創業からずっと先の将来に生み出される。複利計算同様、成長の絶対値は初期ではなく晩期に最も大きくなる。

もしそうだとすると、ベンチャーとして大成功するかどうかは市場に最初に参入したかどうかではなく、最後まで生き残れるかにかかっている。同様に、市場や他企業をディスラプトしたかではなく、自身が他社によってディスラプトされなかったかが大きな企業価値を実現する上での必須条件である。いくら高速で成長する企業であっても、とてつもない大企業は短期間で作られるのではなく、何年もの間にわたって作られる。

何年もの間、継続的に成長するためにはPeter Thielの言うようにいかに競争を回避するかが重要である。

Blitzscalingの本質は競争環境からの脱出

競争を回避することこそが、超巨大ベンチャーに成長する秘訣だとしたとき、Blitzscalingという経営戦略は「競争という名の重力から脱出」することに本質がある。

競争に勝っただけでは巨大ベンチャーに成長する見込みはない。競争もろとも逃れることが必要条件である。

Blitzscalingという爆速成長の道を選ぶことは、競合の参入を思いとどまらせ、あるいは圧倒し、市場を完全独占することに狙いがある。逆にBlitzscalingしないという選択は、慎重に、そして効率的に事業拡大を進められるメリットがある一方、多くの競争を引き寄せるリスクを受け入れることとなる。

一強の時代における、一強をめざす競争戦略こそがBlitzscaling

事業拡大の速度がますます高速化し、ネットワーク効果が発揮されるインターネット関連市場においては一社独占の様そうが年々強まっている。

Glengarry Glen Ross(映画)の言うように、一等賞はキャデラック、二等賞はステーキナイフセット、三等賞はクビという一強の時代においてはBlitzscalingは極めて合理的な経営戦略と思える。

テック企業の歴史的なピボット

多くのテクノロジー企業は起点となるピボットを繰り返しながら、栄光と没落を経験する。むしろテクノロジー企業において、大胆な事業転換を経験せずして、成功を収めることはないと理解されている。

Microsoft社の思わぬOS事業進出

1975年創業のMicrosoft社は元々Microsoft BASICを中心とするプログラミングツールを開発する会社だった。Microsoft BASICは現在も使用されているVisual Basicの前身となるもので、当時パソコンOSの開発を手掛けるつもりはなかった。むしろOSを提供する会社にMicrosoft BASICをライセンス提供する形で、プログラミングツールとして高いシェアを誇っていた。

転機が訪れたのが、1981年のこと。IBMのPC向けにMicrosoft BASICをライセンス契約する機会をこぎつけた際、IBMから思わぬ注文を受ける。

当時、OSで高いシェアを誇っていたのがDigital Research社のCPMというOSだが、IBMはそのCPMのライセンス提供にてこずっていた。

IBMとDigital Research社がOSのライセンス契約を交渉する当日、Digital Research社のCEO Gary Kildall氏は自家用ジェットでサプライヤのところに向かっていた。Garyの代理として夫人で元弁護士のDorothy McEwen氏が交渉の場にやってきたものの、NDA締結に際してDorothyが強硬な姿勢を取ったことから交渉がとん挫してしまう。

その結果、IBMはMicrosoftに対して、Microsoft BASICをライセンス契約する条件として、並行してOSも提供するようにと注文をつけた

IBMからの注文を受け、Microsoft CEOのBill Gatesは近所に住むTim Paterson氏から86-DOSという名前のOSを$75,000で買ってきた。MS-DOSに名前を変え、IBMへのライセンス契約を始めた。これが後に世界を席捲することとなるMicrosoft OSの出自である。

MS-DOS Command Prompt Window

Microsoft社の思わぬ失敗と成功

1985年のこと、Bill Gatesは当時Apple CEOだったJohn Sculleyに有名なメールを送っている。当時のMicrosoft社はMS-DOSを開発していたものの、OSにはまだまだ注力していなかった。当時はMicrosoft WordやMicrosoft Excelなどのアプリケーションに特化していた

そこでBill GatesはJohn Sculley氏宛に、Mac OSをより広く普及するためにMac OSを他社にライセンス契約してくれないかと懇願する内容のメールを送っていた。Gates氏は当時Apple社のチップOEMメーカーだったMotorola社から得たMac OSをライセンス提供してほしい旨の趣意書まで添付している。

John Sculley率いるApple社はそのお願いをすぐさま却下した。結果、Microsoft社はMicrosoft Windowsの開発を手掛けることとなり、このメールから10年後にはWindows 97%シェアMac OS 3%シェアという顛末を迎える。

他社の事例

Sun Microsytems社:

1982年創業当時はUNIXのワークステーションの開発販売から始まり、1990年代に入りサーバー事業に転換。

The four founders of Sun Microsystmes. Vinod Khosla, Bill Joy, Andy Bechtolsheim, Scott McNealy (from left to right)

Netscape

1994年創業。当初は有料のウェブブラウザとして発売、MicrosoftのInternet Explorer無償提供に伴い無償化、そののちにFirefoxブラウザに転換(現存する)、次いでビジネス用ソフトウェア開発およびヤフーのようなウェブページの開発に事業転換。黒字のまま最終的にAOLおよびSun Microsystemsに事業売却。

Intel

1980年代半ば、日本半導体メーカーからの熾烈な競争によりDRAM事業から撤退し、マイクロプロセッサ事業に転換

PayPal

Eric Schmidtの履歴書

1955年

4月27日、ヴァージニア州フォールズチャーチ生まれ(ワシントンDCから東に10kmほどに位置)。父のWilson Schmidtはバージニア工科大学およびジョンズ・ホプキンズ大学にて国際経済学を教える大学教授。

1972年(17歳)

バージニア州、ヨークタウン高校卒業。高校時代長距離走の選手として活躍。このころからプログラミングをするようになり、当時パソコンが存在していなかったことを考えればかなり珍しかった。

1976年(21歳)

プリンストン大学卒業。当初は建築学を専攻していたが、電気工学に専攻を変えて卒業した。

1979年(24歳)

カリフォルニア大学バークレー校にて修士号取得。専攻は引続き、電気工学。後にサンマイクロシステムズ社を創業することになるBill Joy氏とクラスメイトおよび親友となる。

1980年(25歳)

修士時代のクラスメイトだったWendy Boyle氏と結婚

1982年(27歳)

同バークレーにてEECS (Electrical Engineering and Computer Science)にて計算機科学の博士号を取得博士論文は複数のプログラマーが大規模ソフトウェア開発をする際の課題についてのもの。当時Xerox社による支援を受けて研究に従事しており、パロアルトのXerox PARCに出入りしていた。

Eric Schmidt Dissertation published in 1982

同時期にベル研究所でも従事し、Mike Lesk氏とともにUNIXで使用する「Lex」というプログラムを開発。

1983年(28歳)

親友だったBill Joy氏が前年に創業したSun Microsystems社に最初のソフトウェアマネージャとして就職。当時のSun Microsystems社はUNIXのワークステーションを製造販売していた。

Bernard J. Lacroute氏が当時の上司およびメンターだったが、その後にLacroute氏はVinod Khosla氏などともにSun Microsystmesから有名VCのKleiner Perkinsに移っている。

本人はソフトウェアディレクター、ソフトウェア部門VP/GMと昇格し、最終的には全社CTOおよびプレジデントに就任。

なお、Kleiner PerkinsはSun Microsystemsに創業当初から投資をしていて、担当パートナーはかの有名なJohn Doerr氏。この頃からEricはDoerr氏と親交を持つ。

1997年(42歳)

ユタ州にあるネットワークソフトウェアを開発するNovell社のCEOとして抜擢。マイクロソフト社との競争を前に事業は衰退。

2001年(46歳)

30名程度だったGoogle社のCEOとして抜擢

シスコシステムズの社長だったJohn Chamber氏の自宅で開かれた政治関連のパーティにて、EricはDoerr氏よりGoogleへの誘いを受け、LarryとSergeyとの面接を経て就任することとなる。

2年ほど前の1999年にGoogleはKleiner PerkinsおよびSequoia Capitalから$25M調達しており、その担当パートナーがDoerr氏。資金調達の条件の一つとして、経験豊富なCEOを採用することとしており、LarryとSergeyは18カ月間もの間、複数の候補者と面談を繰り返していた。

Ericが面接に訪れたGoogle本社は偶然にもSun Microsystems社がかつて居を構えていた建物で、Ericが働いたことのある場所。部屋に入ると壁にEricの経歴が投影され、たくさんの食事が並んでいた。90分間にわたり、LarryとSergeyはEric率いるNovell社の技術的な戦略に関する批評を行い、当時採用していたプロキシキャッシュの必要性を否定されたそう。同じコンピュータサイエンスおよびネットワークの領域にて高い技術的専門性を持っていた三人は意気投合し、Ericの社長就任に至る。

就任直後のEricの役回りは各VPを指揮するだけでなく会社組織を整備することであり、当時は月曜日に経営会議、水曜日にはセールス会議、金曜日にはプロダクト会議を実施したそう。

なお、当時のGoogle社にはプロダクトマネージャが3名おり、現在のAd Systemを開発することになるSalar Kamangar氏、現在のYouTube社の社長を務めるSusan Wojcicki氏、後にYahoo CEOに就任することとなるMarissa Mayer氏と非常に優秀で強力なメンバーが揃っていた。

2004年(49歳)

GoogleのIPO。時価総額で$27Bの評価をつける。

2011年(56歳)

CEOから退任し、引き続き会長職。

2015年(60歳)

アルファベット社(Googleのホールディング会社)の設立とともに、アルファベット会長就任。

2017年(62歳)

アルファベットの会長からは退任し、取締役に。

2019年(64歳)

アルファベット取締役から退任。

次なる不景気

ここで定義する不景気とはアメリカにおいて実質GDP成長率がゼロを下回っている期間とする。不景気の期間(黄色ハイライト)とS&P500株価指数(青折線)を表現したものが下記の図。なお縦軸は1971年を1.0とした場合の指数値。それぞれの不景気と密接に関係している事象をそれぞれ列挙しているが、およそ5年から10年おきに何らかの不景気が訪れていることがわかる。興味深いのは不景気と株価は必ずしも連動していないものの、直近2回に限って言えば株価が著しく下降していることがわかる。

直近10年の青折線を見ると顕著だが、いかに長く好景気が続いているのかが伺える。

個人的な予想だが、次の不景気は中米摩擦が原因で起きるのではないかと考えている。むろん、根拠はない。

不景気が到来すると何が起きるのか

前回の金融危機に際して、シリコンバレーのベンチャー界隈で有名になったスライドデックがある。Sequoia Capitalが投資先企業に配布したデックだ。

Sequoia Capital (RIP slide deck front page)

あなたはどちらか?Mercenary(報酬目当ての傭兵)か、Missionary(福音を伝える宣教師)か

シリコンバレーで長らく最強の投資家として名高かったJohn Doerr氏(Doer氏率いるKleiner Perkinsはクリーンテックに傾倒したのちにセクハラ問題等で今はすっかり勢いを失っており次世代の離反が止まらない)が提唱するMercenary型とMissionary型のリーダーシップ体系。左は投資銀行あるいは投資ファンドを現しているように思える。右はNPOを思わせる。Doerr氏曰く、後者の素養を持つ起業家あるいは企業が優位と唱える。